谷脇 裕子 弁護士のブログエントリー一覧
弁護士 谷脇 裕子
2018年02月01日(木)
かくありたい、と思ったこと
先日、高速道路上で車のタイヤがパンクするというアクシデントに見舞われた。
後輪あたりで、カタカタ、ガタガタ耳慣れない音がするなあ、と異変に気付いていたものの、とにかく高速を下りてから何とかしようと安易に考え、ゆっくり目ではあるが走行を続けた。ところが、あと数分で高速道路出口、というところでいよいよハンドルを取られてしまう状態に…。
うわ、ただ事じゃなかったんだ。どうしよう…。
スピードを緩めても大丈夫?とにかく端に寄せないと…。
なんとか追突されることもなく路肩に停車。
さて、どうしようか。そうだ、保険代理店の〇〇さんに相談しよう…。
「あのう、谷脇です。お忙しいところすみません。私、ロードサービス入ってましたっけ?」
「はい、大丈夫ですよ。どうされました?」
「高速道路でパンクしてしまって…。」
「大丈夫ですか?安全なところに待避できますか。これからロードサービスセンターに連絡を取ります。センターから連絡が入りますのでそのままお待ちください。」
あ~。ロードサービス入っていてよかった~
これで少し落ち着きを取り戻し、電話を待っていると、そこにパトロール中の道路管理センターの車が通りかかり私の車の後ろに付けて停車した。
「どうされましたか」
「タイヤがパンクして…」
「大変でしたね。危ないですからガードレールの後ろに入っていて下さい。△番は持っていますか?」
「ありません」
「では、ポールを立てておきますね。」
ふう~、ありがたい。何だろう、この安心感。
「修理業者には連絡されましたか?」
「保険会社からの連絡待ちです」
「今、安全な状態が確保できていますので行きますが、修理業者の名前と到着時刻がわかったらご連絡下さい。それから、修理が終わって出発される際にもご連絡を。故障車有りという表示を出していますので。」
そうこうしていると保険会社のロードサービスセンターから連絡があり、業者の手配ができたこと、50分ほどで到着することを伝えてもらう。
ようやく見通しが立ち、落ち着いてきた。
近くのサービスエリアに移動しコーヒーを飲みながら待つこと40分程度か。業者の方が到着。
作業に入る前、ポールを3個追加、発煙筒も炊いてくれた。
作業が気になって近づいて見ていると、危ないですから入っていて下さいと。手際よくパンクしたタイヤを外し、スペアタイヤを取り付けてくれた。
「スペアタイヤでは高速は走れません。速やかに下りて下さいね。お気を付けて」
あ~、これで走れる。よかった、大事に至らなくて。
おそるおそる本線に出て走行。高速を下りたらタイヤ交換してもらおう。
続いて修理工場へ。外されたタイヤは無残に裂け、ホイルに食い込みひどい状態だった。
「こんなになっちゃうんですね」
「釘か何かを踏んだのでしょう。そこから空気が入って熱を持ったためにこうなったんでしょうね」
「はあ。もっと早く車を停めなければいけなかったんですね」
食い込んだタイヤをホイルから外すのがまたまた大変。いろいろな道具を使って器用にタイヤを付け替えてくれた。
高度に複雑化し分業化した社会に生きる私たち。様々な役割分担の上に平穏な日常生活が成り立っていることに改めて気づかされる。
アクシデントに見舞われ不安に苛まれているとき、自分ではどうしようもないとき、それぞれの分野のプロに助けてもらい、支えられていると改めて知る。何ともありがたい。
私のところに訪ねて来られる相談者の方々も、自分では解決できない問題をかかえ不安でいっぱいのはずだ。
私は私の領域で、安心を取り戻してもらえるよう貢献することで与えられた役割をきちんと果たしていきたいと改めて実感した出来事だった。
弁護士 谷脇裕子
弁護士 谷脇 裕子
2017年03月09日(木)
眼差しの向こう側へ
2月、ある土曜日昼過ぎの我が家でのできこと
ピンポーン ピンポーン(しつこい…)
夫 「はい。」
甥 「おじさん、ボクです。開けて。」
夫 「よう!いいけど裕子おばちゃんは仕事でいないぞ。」
甥 「うん。」
~中略~
甥 「おじさん、中学受験、全部終わったよ。」
夫 「大変だったな。ご苦労さん。」
甥 「やれやれだったよ。試験、難しかったぁ。」
~中略~
甥 「おじさん、中学生になってもおじさんちに寄らせてもらっていい?」
夫 「ばか。中学生って忙しいんだぞ。おじさんやおばさんなんか相手にするな!」
甥 「おじさん、お願い!寄らせてください。」
夫 「はいはい。」
ブーブーブー
甥 「おじさん、ケイタイ鳴ってるよ!」
夫 「お!」
甥の母「もしかして、息子、お邪魔してるんじゃない?」
夫 「はい、います。」
甥の母「すぐ帰るように言ってくれる?お昼ご飯まだなので。」
夫 「はい、すぐ帰らせます。」
甥 「母さん?帰れって?」
夫 「また黙って来たんだろう?母さん怒ってたぞ。」
甥 「帰ります。」
もう、春はそこまで来ています。
弁護士 谷脇 裕子
2017年02月14日(火)
眼差しのなかに見えたものは…
先日、甥(妹の息子)の中学受験が終わった。それにしても今どきの小学生は大変だ。私が小学生のころは、家で勉強はおろか宿題をした記憶さえないが、彼は小学4年生から3年間、学習塾に通って受験の準備をしてきたのだ。私たち夫婦は、妹家族の近所に住んでいることもあって、毎週末のように妹宅を訪れ、義弟(妹の夫、甥の父親)とお酒を酌み交わす間柄だ。ここ数年、私は、週末の夕方、妹宅を訪れる度に、塾帰りの甥と妹夫婦(甥の両親)の様子を、横目で見てきた。
中学受験の良否については、親でもない私がとやかく言うことではないと思う。ただ、近くで見ていて感じたことは、それが並大抵のことではかったということだ。不安の中で揺れる本人の心と、彼の将来を思う親の心がぶつかり合っては前に進む、といった感じの繰り返しだったように見えた。
塾に持たせるお弁当を作り、帰りが遅くなる日は迎えに行き、暗記やテストの復習に付き合い続けた妹(母親)、ロボットを作るエンジニアになりたいという甥の夢が叶うようにと熱心に進学先のリサーチをしていた義弟(父親)を間近で見てきた私は、つい、甥に「お父さん、お母さんを喜ばせてあげてね」と思ってしまう。自分が大人になり、歳を重ねた今になって、「親を喜ばせることなんてそうそうできないんだよ」「こんなチャンスはそうないんだから」なんて、なかなか親を喜ばせてこられなかった私の心まで揺れてしまった。もちろん、勉強は本人のためにするものだし、親は無事に受験を終えることができただけでも十分喜んでくれるのだけど…。
志望校合格発表の日の昼、妹から合格の知らせがあり、その日の夜、お祝いを言いたくて甥の家を訪ねたとき、甥に「合格おめでとう!」と伝えるつもりが、「心配してたんだぞ!!」と思わず抱きしめてしまった。そのとき照れくさそうにする眼差しのなかには、もう、暖かい春の木漏れ日がキラキラと輝いて見えた。
弁護士 谷脇 裕子
2016年03月23日(水)
立ち止まってはいけない?
今月15日のブログ(「永い言い訳」の長い言い訳)でも少し触れましたが、昨今、表現媒体や表現手段の広がりとは裏腹に表現に対する寛容さが失われ、ともするとポジティブなメッセージしか受け入れられにくくなっているように感じます。そして、最近どこでもかしこでも「過去を振り返るな」「立ち止まらず前を向いて進め(進もう)」(これこそが成功のルールだ)という趣旨の、それこそ耳障りの好い前向きなフレーズを耳にします(記憶に新しいところでは、SMAPの解散騒動後の木村拓哉さんの発言で「これから自分たちは何があっても前を向いて進んでいく」というものがありましたね。)。
しかし、ひねくれ者の私はこのフレーズに違和感を覚えます。時間は巻き戻せないのだから、もとより前へ進むしかない。そんなことは分かりきったこと。
一見、ポジティブに聞こえる、この「前へ進め(進もう)」の大合唱(?)。私には、このメッセージの流行が、とりもなおさず今を生きる私たちの不安の深さを物語っているように思えてなりません。また、このフレーズ(時代の精神)は、厳しい状況のなかで不安な気持ちをごまかすために都合のよい、自己暗示のようにも感じられます。誰もが失敗を恐れて、思考停止のまま、まるで乗り遅れてはいけないとばかりに“行き先不明の満員バス”に飛び乗ろうとしているかのよう(行き先は不明なのに!です。)。
しかし、不安な状況、厳しい状況であるならば、そうであるからこそ、ときには立ち止まり、ひとりぼっちになって去就を定める勇気が必要なのではないでしょうか。そう、それはとても淋しいことかもしれないけれど、つらい選択の責任を他人や社会に押しつけたことの代償は決して小さくはないはずだから。
弁護士 谷脇 裕子
2016年03月15日(火)
『永い言い訳』の長い言い訳?
西川美和さんの『永い言い訳』(文藝春秋)という小説を読んだ。西川さんの著作を読んだのはこれが2冊目だ。1冊目は『映画にまつわるXについて』という作品で、こちらはエッセイ集だった。私はこの本で、初めて西川さんが映画監督であり、広島県の出身であることを知った。
『永い言い訳』は突然の事故で妻を失った男の物語だが、この作品を読んでひとつ引っかかったことがある。それは、文章全体から感じられる、ある種の【照れ】のような印象だ。
表現媒体や表現手段の広がりとは裏腹に、なぜか表現に対する寛容さ、度量の広さが失われ、ともするとポジティブなもの(たとえば昨今よく耳にする「前に進め」などのフレーズ)しか受け入れられにくくなっている現代社会において、西川さんがおそらく一番表現したい、伝えたいと思っているであろう人間関係の厄介さ、煩わしさと、しかしそれこそがすべてだ!(本作のなかの表現を借りれば「人生は、他者だ。」)という本作を含めた西川さん自身のテーマのもつリアリズムは、重すぎて浮いてしまう。
西川さんの文章全体から感じられる【照れ】のような印象は、人間関係の重すぎるリアリズムと不寛容になった社会とをすりあわせるための長い言い訳のように感じられた。
深読みのしすぎだろうか?