谷脇 裕子 弁護士のブログエントリー一覧
弁護士 谷脇 裕子
2016年03月15日(火)
『永い言い訳』の長い言い訳?
西川美和さんの『永い言い訳』(文藝春秋)という小説を読んだ。西川さんの著作を読んだのはこれが2冊目だ。1冊目は『映画にまつわるXについて』という作品で、こちらはエッセイ集だった。私はこの本で、初めて西川さんが映画監督であり、広島県の出身であることを知った。
『永い言い訳』は突然の事故で妻を失った男の物語だが、この作品を読んでひとつ引っかかったことがある。それは、文章全体から感じられる、ある種の【照れ】のような印象だ。
表現媒体や表現手段の広がりとは裏腹に、なぜか表現に対する寛容さ、度量の広さが失われ、ともするとポジティブなもの(たとえば昨今よく耳にする「前に進め」などのフレーズ)しか受け入れられにくくなっている現代社会において、西川さんがおそらく一番表現したい、伝えたいと思っているであろう人間関係の厄介さ、煩わしさと、しかしそれこそがすべてだ!(本作のなかの表現を借りれば「人生は、他者だ。」)という本作を含めた西川さん自身のテーマのもつリアリズムは、重すぎて浮いてしまう。
西川さんの文章全体から感じられる【照れ】のような印象は、人間関係の重すぎるリアリズムと不寛容になった社会とをすりあわせるための長い言い訳のように感じられた。
深読みのしすぎだろうか?
弁護士 谷脇 裕子
2015年10月19日(月)
家庭内ADRのすすめ
みなさんは、ADRって聞いたことありますか?日本語では「裁判外紛争処理」「裁判外紛争解決」などと訳されたりします。難しい議論は後回しにして、要するに、お話し合いで解決しましょうというお話です。
仲裁人(当事者以外の第三者)を間に挟んで、お話し合いをするのです。ルールはとても簡単。相手がおしゃべりしている間は、口を挟まず話を聞くこと。自分の言い分は、相手の話が終わった後にすること、これだけです。
仲裁人は、一方がお話しした後、その話を整理して繰り返し、両方の当事者に聞かせ、確認します。それを聞いたうえで、相手方当事者が自分の言い分を話します。
あとは、その繰り返しです。
この方法が素晴らしいのは、自分の言い分をきちんと相手に聞かせることができること、そして、仲裁人が整理して話す内容を聞いて、自分の言い分を客観的に確認できることです。
この方法、実は、子どもの兄弟げんかにとても有効なんです。ただし、自分の言いたいことをある程度言葉で表現できる年齢になっていることが必要ですが…。
ある兄妹げんか(うちの甥と姪です。)の例をご紹介します。
小学校5年生の兄(慎之助)と小学校2年生の妹(愛子)のけんか。慎くんは、食事中、水泳教室で使った帽子のワッペンが破れていたことを急に思い出し、食卓を離れて水泳バックから帽子を取り出し、かがみこんでワッペンを確認していました。慎くん曰く、そこへ、愛ちゃんがかけより、慎くんのメガネ部分を足で蹴り、メガネのフレームが歪んでしまった、というのです。慎くんはわめきだし、愛ちゃんは号泣…。そこで、仲裁人の出番です。
両者を椅子に座らせ、ルールを説明します。
2人の話は、ちゃんと真面目に聞くから、相手が話している間は口をはさまないこと。いいたいことが思い浮かんだら手元の紙にメモして、自分の順番が来たら話すこと。いいかな?「うん。」
じゃあ、文句を言ってた慎くんの言い分から聞こうか。
慎くん「ぼくがね、水泳の帽子が気になって見てたらね、愛子が蹴ったの。そしたらね。メガネが広がっちゃったの」
わかった。愛ちゃんに蹴られてメガネが広がっちゃったんだね。じゃあ、愛ちゃん、今の慎くんが言ったことは本当?
愛ちゃん「ううん。違うよ。蹴ってないよ。手があたったんだよ。それに、わざとじゃないんだよ。それから、メガネが広がったのは、その後、お兄ちゃんがソファのところに倒れ込んでメガネを落としたの。きっとその時に広がったんだよ。」
わかった、蹴ったんじゃなくて、不注意で手があたっちゃたんだね。メガネは手があたったからじゃなくて、落としたときに広がった。
じゃあ、慎くん、まず、愛ちゃんが蹴ったというのは、見たの?それとも、メガネに何かがあたったから、蹴られたと思ったの?
慎くん「見てはいない。ぼくは頭を下げてたから蹴られたと思った。」
じゃあ、もしかしたら、手があたったかもしれない?
慎くん「そうかもしれない。」
愛ちゃん、手があたった時のことを教えてくれる?何をしてたのかな?
「お父さんがね、ちゃんとご飯を食べてからにしなさいって言ったからね、急いで椅子のところに戻ろうと思ったの。それで手があたっちゃった。」
慎くん、ご飯中だったのかな?「うん。」
お父さんが、席に戻ってご飯を食べなさいって注意した?「覚えてないけど、そうだったかも…。」
じゃあ、愛ちゃんは、急いでいただけかもしれない?わざと蹴ったんじゃないかも、かな?「うん。わざとじゃないかもしれない。」
じゃあ次に、メガネなんだけど、慎くん、広がったのはソファのところで落としたからじゃないの?「違うよ。その時は先にメガネを外して置いたんだよ。」
どうして覚えてるの?「僕はね、まだメガネが新しくてね。前のメガネの時、よく曲げたりしちゃってたからね、それが嫌で、落とさないようにしたり、曲がってないか確認したりしてるの。」
そうか。いつもメガネのことはとても気になっているんだね。
愛ちゃん、手があたった時にもしかしたらメガネが広がっちゃったかもしれない?「手がね、ここ(鼻当てのところ)にあたっちゃったの。だからもしかしたらそのときに広がっちゃったのかな。」
もし、気をつけてたら、メガネに当たらなかったかもしれない?「うん」
じゃあ、これからは気をつけようね。
実は、この話の後には、お父さんがからむお兄ちゃんとのもう1ラウンドがあるのですが、そのお話は、また別の機会に…。
間に第三者を挟む話し合いの良さは、自分が悪かったかもしれないところを見つめ直すことによって、お互いある程度納得して話を終わられせることができることです。一方的に怒られてしまうと、どちらかに不満が残ります。
それから、言葉で、理屈で、戦った場合、自分の言った言葉は自分に返ってきます。言葉による話し合いの習慣をつけることによって、自分への不合理な言い訳は通らなくなり、本当に主張すべき正しいことは何かが見えてきます。
お子さんの兄弟げんかを見かけたら、是非、一度、試してみてください。
もしかしたら、ウィンウィンの解決が目指せるかもしれませんよ。
弁護士 谷脇 裕子
2014年06月23日(月)
世界で一番うつくしいもの
先日、あるパーティ会場に、今年9歳になった甥を連れていった帰り道のこと、自宅まで、かなりの距離がありましたが、その場の勢いで歩いて帰ることに。はじめて体験した華やかなパーティでの様々な催しに、興奮気味の甥は、いつにも増して、元気いっぱいでした。
夜景を見ながら、しばらく二人で歩いていると、ふいに甥が「さみしいね。」とひとこと。「ん?」にぎやかなパーティで、散々はしゃいだ後だったので、静かになった帰り道がさみしくなったのだろうと思いきや、
「おじいちゃんとおばあちゃん、いなくてさみしいね。」と。
その日は、甥の家族と私とで、私の父母(甥にとってはおじいちゃんとおばあちゃん)のいる実家に帰省した後、一緒に広島に戻ってきた日だったのですが、彼は、昼間に別れたおじいちゃん、おばあちゃんのことを思い出していたのです。
たまに会ったときに欲しいモノを買ってくれるおじいちゃんとおばあちゃん。大人のうがった見方で、だから、おじいちゃん、おばあちゃんに会いに行くことを喜んでいるものとばかり思っていました。この思い込み、なんと了見の狭いことか…。
子どもの長い長い一日の、しかも、エキサイティングな一日の終わりに、彼の心の中には、おじいちゃんとおばあちゃんがいたんですね。
いつもは、あまりにも気立てが良く、優しすぎて、ただただ心配が絶えない甥、そんな甥が何気なく発したことばに、この世界には、こんなにも純粋にうつくしいものがあったのかと素直に驚かされました。また、それとともに、本当は、私たち大人が彼のような子どもたちに伝えていかなければならない『この世界は生きるに値するんだよ』というメッセージを、逆に彼から教えてもらったような気がします。
子どもの心のなかの広大な宇宙には、きっと、大人のうかがい知ることのできない、もしくは失ってしまってもう取り戻せないうつくしいものが輝いているんでしょうね。
弁護士 谷脇裕子
弁護士 谷脇 裕子
2014年01月21日(火)
言葉について
クリス・ハートさんというシンガーをご存じでしょうか。最近は紅白にも出場されたので知っている方も多いかもしれません。
以前、あるテレビ番組を何気なく見ていると、日本語をテーマにトークがなされており、クリスさんが流ちょうな日本語で、「ありがとう」という日本語の美しさ、奥深さについて、目をキラキラさせながら語っていました。その後、デビュー曲の「home」という曲を歌っているのを聞き、言葉自体の美しさをかみしめるように、ひと言一言大切に歌う透き通った歌声に、一瞬にしてファンになりました。J-POPのカバー・アルバムが発売されていると知り、早速購入。選曲もさることながら、紡ぎ出される言葉のひと言一言がメロディーに乗ってまっすぐ心に届いてくるようでした。
彼は、歌う歌詞の単語一つひとつを改めて辞書などで調べ、たとえば「ありがとう」という言葉についても様々なニュアンスの中からそのフレーズに相応しい「ありがとう」をイメージし、そのイメージに相応しい声音、声量、ブレスの置き方などを選択しているのだそうです。
私自身、日本語という言葉の持つ固有の響きや美しさについて、特に意識したことはありませんでしたが、外国人シンガーによってそれを教えてもらいました。
言葉は、人にとって凄まじい威力を発するものであり、感動を与えられるものであると同時に、ときに人を深く傷つけるものでもあります。
これまで、当たり前のように使ってきた日本語ですが、母国語としている者として、用いる言葉のひと言一言について、意味を深く理解し、正しく、そして大切に発していく努力をしたいと思いました(彼のように上手に歌うことはできないけれど…。)。
弁護士 谷脇裕子
弁護士 谷脇 裕子
2013年05月27日(月)
「ル・マル・デュ・ペイ」
「ル・マル・デュ・ペイ」とは、最近話題になった村上春樹さんの新作の中で用いられている表現で「田園が人の心に呼び起こす理由のない哀しみ」を意味するフランス語だそうです(「そうです」、というのは、私自身は本の紹介記事を読んだだけで、本文を読んでいません。)
この「田園が人の心に呼び起こす理由のない哀しみ」というフレーズを読むと、なぜか目の前に情景が浮かび上がり、胸が締め付けられるような感覚を覚えます。今の自分と遠い記憶のようなものが結びつき静かに揺さぶられる気がするのです。
それは、変わらない普遍の風景が、かつての何の不安もなく未来に何かあると信じていた子どものころの感覚を呼び覚まさせ、同時にそれに対する喪失感や諦め、自分だけが変わってしまったという時間感覚の儚さ、人生の短さを教えてくれるからなのか?
国境を越えて人々のDNAに訴えかけてくるような何かをもった表現の存在に、(本は読んでいないのに)感動している最近の私です。



